『かなづかい入門』その2

 近所の圖書館に『かなづかい入門』が入庫してゐたので、借りて讀了する。「定家」「契沖」「宣長」を前座にしてまで言ひたかったことは、多分、以下の2點だらうと思ふ。

  • 『第七章 伝統を捏造するな−文化人たちのノルタルジー』
  • 『第八章 新仮名遣で古典を書く−表記の規則だから』

 假名遣ひに關する先行研究をマイルドに紹介しながら、筆者が勝手に想像したステレオタイプの正假名遣ひ派への批判と、いきなり古典を現代假名遣ひにしろといふ過激な提案が出てくる。正假名遣ひへの批判と、現代假名使ひへの擁護は、ネットでは既出の議論なので、特に新しいものはないかもしれない。著者が現代假名使ひを擁護すればするほど、正假名遣ひも擁護されるといふ皮肉な展開になってゐる。字音假名使ひへの批判が唯一説得力があったぐらゐだ。
 この本の目的は、「正假名遣ひに興味を持ち始めた人へ、正假名遣ひは虚構なので、使用を止めなさい」と傳へる程度だ。それ以外では、この本を讀んだあとに、正假名遣ひ實踐者が正假名遣ひの使用を止めることはないし、もともと假名遣ひに關心がなく惰性で現代假名使ひを使ひ續ける人が、いきなり現代假名使ひの素晴らしさに目覺め、正假名遣ひへの批判を強めることはない。そもそも關心のない人がこの本を讀むことはない。まして古典を現代假名遣ひに置き換へる運動など起きさうもない。そもそも表記に關心のない人が、古典の表記を改革するために行動を起こすことは有りえない。
 といふ意味では人畜無害の書籍である。しかも、「正假名遣ひに興味を持ち始めた人へ、正假名遣ひは虚構なので、使用を止めなさい」が目的であるなら、正假名遣ひがネット上で生き延びてゐることに氣付いた筆者の焦りを感じる。恐らく、ネットの出現前までは、筆者は正假名遣ひは完全に絶滅したと思ってゐたのであらう。ところが、個人が自由に表記を選べるネットでは豫想外に正假名遣ひが使はれてゐることに驚いたのであらう。その原因が源氏物語などの古文教育で使はれる歴史的假名遣ひ教育だと勘違ひしてゐる節もある。さう考へると、筆者が唐突に古典教育に現代假名使ひを導入せよと訴へる意圖がわかる。もしさうなら、かなり危險な文化抹殺者とも言へる。