中国語の語順

 一方、北方はというと、華北には、その後もたびたび北方民族が入ってきたことは言うまでもない。その結果、話し言葉はかなりアルタイ語化しているという。例えば、現代漢語でも、「我去学校。」(私は学校へ行く)と「去」(行く)という動詞を目的語の前に持ってくれば、これは南方的表現(順行構造)であるが、「我到学校去。」と動詞をアルタイ語的に後に持ってくる北方的表現(逆行構造)が現代漢語には増えてきている。ちなみに筆者も、学生時代、「到」は動詞ではなく、「補語」だとか何とか教えられたが、この橋本のように説明されると「到」の意味もよく分かる。

 ださうだが、中国語にもSOV系の表現が増えてゐるのかな?言語学とは関係ないのだが、どうもこの人の文章にはマルクス臭がする。例へば、

 少なくとも、あれほどのファラオの財力が、「ナイルの賜物」と言われたエジプトの豊かな農業生産にあったことは間違いなく、ファラオが一人で耕したわけでない以上、何らかの方法で、農民が作った穀物を収奪することが、ファラオの財力の基本であったことは間違いないだろう。
 そう考えるならば、古代エジプトに一般にイメージされるような奴隷はいなかったとしても、当時のエジプトの「農民」というのは、一年中、農繁期も農閑期もファラオのために働かなければ最低生活を維持できないような人々だったことが分かる。

 単純に権力者に収穫の大半を納める点では、現代人も変はりないと思ふ。自分が直接恩恵を受けるはずもない財・サービスを大量に生産しながら、そこから報酬を受けて、老後のひとときの安らぎを求めるのは資本主義に生きる現代人も一緒ではないかな?その対価として、秩序や治安を国家や会社から受けてゐるのは古代人も現代人も一緒だ。それを必要悪と捉へるか絶対悪と捉へるかでマルクス度が違ふのだらう。最終的には後者の価値観が恐ろしい弾圧社会に発展することになる。何事でも絶対が好きな人は弾圧も好きである。

 それにしても、農閑期に仕事のない農民に食い扶持を保障するために「公共事業」としてピラミッド建設などを行うファラオを、番組は「慈悲深きファラオ」などと称していたが、昨今のホームレス問題を見るに付け、どこかの国の為政者にも、ファラオが自分の「農民」たちに、最低限の食料と住居を保障したような「慈悲」を持ってほしいものである。もちろん、忘れてもらってはならないのは、4000年の間に、「最低限の生活」のレベルが格段に上がっていることである。

 この辺は考へさせられるところだ。

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